絶望の先へ

先日、前回の台風の直撃で被災した、知り合いの方のお手伝いに行ってきまして。

 

もうね、一言で言うと『絶望』を感じた。

 

畑は浸水し、作物は流され、小屋も浸水して中の機器も全滅。すべて廃棄。廃棄の量もそうだが、なによりそれを片付ける体力がいるのだが、絶望感で気力が失われるゆえに足取りは重い。

 

被災した本人なら尚の事だろう。

 

『こんな時にこそ力になれずに、何が仲間だ』と内側の自分が強く憤っている。自分に叱られた気分だった。

地域の特設廃棄物回収場に付くと、そこは見た事の無い地獄絵図さながらに映った。

被害の翌日はこの非では無かったらしい。余りの見るに耐えない現実から目を逸らしてはならないと内側の自分が言う。

打算的な考えは大嫌いだ
ギブ&テイクは大嫌いな言葉の1つ
それはテイクありきのギブだろう
それは真にギブでは無いと思うからだ

何が言いたいか?
今回手伝ってやったから、今度うちが大変な時には勿論手伝ってくれるよな?と暗に醸し出す様な行動は絶対に取るべきでは無いと考える。自分ならそんな人間とは一切付き合いたくはないからだ。

そんな低レベルの話じゃないんだよ。
現場を見ろよ。
変な考え起こすヒマありゃ飛んで行って少しでも手伝ってみろよ、と。

酷いなんてもんじゃない
悲惨という言葉すら薄い

もうね、他人事じゃなかった

おそらく、私の根底にある将来的に実現したい農業者連合なるモノを見ていて、農作業もそうだが、想定外のマンパワーのいる不定期な重労働をその連合で分散し、協力し合う姿を求めていての考えもあるのだと思う。

農作業をご存知の人はわかると思うが、作物によって作業の偏りがある。定植や収穫の様な大変な時期があってそうでもない時期もあって。それぞれのその偏りをそれぞれで補いあう形が理想なんだ。無理が無理じゃ無くなるんだ。一人増えるだけで全然違うんだ。

パートさんを雇うには安定した仕事が要る。規模が大きければ委託する作業は膨大となり、しかしその分煩雑さは増し、必要となる力量の配分もとても難しくなる。農業法人時代にとても頭を悩ませた経験からだ。

そこで考えられる手として、やはり連携が必要となる。小規模でやる農家同士の連携だ。それは金銭的なやりとりでは無く、人的、マンパワー的やりとりでだ。可能なはずなんだ。昔の人はそれを当たり前にはやっていたからだ。

まだまだ道半ば

1つずつ形にしていこう

まずは行動だ
話はそれからだ